第20回 金津園・大垣・名古屋・静岡・三重ソープ2024年の年末年始営業
早いもので2023年も残りあと僅か。皆様の今年のソープ遊びはいかがでしたでしょうか。今年も例年と同じくソープランド店リストに扇子マークで年末年始(大晦日と元旦)の営業状況をまとめてみましたので、ぜひご参考にしてください。
【年末年始営業の見方】
…31、1日ともに営業 …31日営業、1日休み(もしくは1日不明) …31日休み(もしくは31日不明)、1日営業 [無印]…31、1日ともに休み、もしくは不明(未定)
年末年始は営業時間が普段と異なり、受付開始時間が遅くなったり、受付終了時間が早まったりするケースがございます。元日に関しましては女の子の出勤状況によって、営業になったりお休みになったりするケースもございます。お店によってはまれに1/2(もしくは3日)までお休みのところもありますが、ほとんどのお店は1/2から通常営業となります。詳しくは、お店のホームページやお電話でご確認ください。
年末年始の営業状況と併せて今年も全国のソープランドの軒数をざっくり調べてみました。新規オープンや休業、閉店、価格改定などの情報が後から分かる場合も多々ありますので、数字に若干ずれがあるかと思われますが、2023/12/29時点で全国でおよそ924軒(超高級5、高級87、中級17、大衆145、格安653、激安17)のソープランドが営業中でした。
ちなみに、HPを公開していないお店は、問合せ先の電話番号が使われなくなったり、つながらない状態が一定期間続いた時点で閉店扱いにしています。また、メイン店以外に別館など複数店舗で営業されているお店については、店舗ごとにHPや問合せ先を設けている場合に限り、それぞれを1店舗としてカウントしています。
昨年来の物価高で今年も多くのお店で価格改定が行われ、その影響もあってかお店の区分も超高級店+1、高級店+2、中級店-3、大衆店+17、格安店-12、激安店-6と変化が見られました。
当サイトにつきましては、まだとりかかれてない沼津・熱海・富士・釧路などのマップ作成はいったん保留にして、ここ数ヶ月は主に中洲の店名変遷を調べているのですが、住宅地図だけだと完全には追えないため、過去ログが残っている2006年以降のbbsなどを参考に、お店のオープンや閉店、休業、移転、リニューアル、店名変更、統合、価格改定、業態転換、経営の交代などを分かる範囲で整理中です。
あと、ソープランド・トルコ風呂・遊廓関連本も引き続き収集しており、『吉原細見』や『月刊ミューザー』以外にも、bbsで遡れない2005年以前の店名変遷の手掛かりになればということで『ナンバーワンギャル情報』や『MAN-ZOKU』、『ザ・漫遊記』、その他風俗情報誌の地方版などを少しずつ入手している状況です。
今年も沢山の皆様にソープ徹底攻略をご利用頂きまして有難うございました。2024年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
第19回 『ふるさとの岐阜の物語 明治編』『同 大正編』『同 昭和編』を読んで
清信重『ふるさとの岐阜の物語 明治編』(福富昜、1994)、『同 大正編』(自費出版、1995)、『同 昭和編』(自費出版、1997)。岐阜県立図書館長を永きにわたり務めた著者が、旧制岐阜中学校への編入以来、半生を過ごしたふるさと岐阜の歴史をそこで暮らす一庶民の目線で綴った歴史書。
大正14年夏、著者の清信重は、濃尾日報社長に就任した父の清寛が岐阜で代議士を目指すことになったのを機に一家で岐阜に移り住む。本書には、明治・大正・昭和にわたる岐阜の近代史とともに、著者の母校・岐阜中学で起きた出来事が時系列でまとめられ、代議士になった父の想い出や、岐中で過ごした青春時代、大学卒業後入社した岐阜新聞時代、退社後教師として勤めた岐阜商業時代のエピソードなどが各所に挿し挟まれている。
明治編出版に際し助成を行った福富教育文化財団の福富氏が、「庶民のための、肩のこらない興味深い歴史書として、県史、市史には見られないものがあります」と序文で述べている通り、本書は、同時代を生きた著者の実際の体験や伝聞により史実が肉付けされているため、時代の空気が分かり臨場感があって読みやすい。その分昭和編では、日中戦争、第二次世界大戦、そして太平洋戦争と戦局が混迷を極める中で、徐々に深刻化する世の中の様子もひしひしと伝わってきて胸が苦しくなる。
ちなみに、本書には花街や遊廓についての興味深いエピソードが多数収録されており、中でも明治期に伊奈波を中心に隆盛を誇った華陽芸妓の記述は印象深い。
「華陽芸妓はある意味での岐阜の名物だった。岐阜は元来、城下町でもなかったし、街道筋の宿駅でなかった。それが今日の繁栄を来したのは、幸いに県庁がここに置かれたこと、東海道線の停車場がここにできたこと、そして明治十五年来ここに華陽芸妓がうまれたこと、これを無視しては岐阜の歴史は語れない。岐阜県下の顕官、財界、政治家のかげには必ずといっていいほど“秘められた”女がいた。いな、むしろ公然たる存在であった。先の岐阜県知事 武藤嘉門が『まつ京』のために、谷汲山華厳時へ地蔵一体を寄進したこと。その開眼供養に当たっては一族郎党五十余人がバス一台を借り切って出掛けたこと。『松京』の死に当たっては嘉門の細君が一切の采配を振るったこと。あるいは元岐阜市長 松尾国松が公的な宴会のあと『これからおバー(兵隊芸者おれい)んとこへいってくる』といっては宴席を抜け出した話。平野増吉が鶯芸者『豆千代』をコロンビアに売り込み、レコード二枚でチョンになったこと。また今日の料理旅館女将におさまっている幾つか。しかしこれらはいずれも男が主人公で華陽芸妓の花を咲かせた話だが、『ふくべ』は数多い華陽芸妓の中で、彼氏を拾い守った。これは美談だ。まこと華陽芸妓の歴史に最後の花を咲かせた話だ。」(明治編、p.52-53)
また、旧金津遊廓についても、岐阜市制施行に大きな役割を果たした開業の経緯にはじまり、濃尾大地震、自由廃業運動、移転問題といった数々の危機や、開業二〇周年祝賀大会、金津病院の開業、創設功労者の記功碑除幕式、明治末から昭和初期まで続いた浅野屋の栄華、共同炊事場の新設、創設四〇周年記念事業の花魁道中、遊廓のカフェー化などの出来事が詳しく描かれ、同時に廓のしきたりや制度、建物の構造、遊びの様式などについても細かな解説がなされている。中でも「回し」と「仕切り」という日本の東西で異なる遊廓のしきたりについては興味深い。
「遊びの風に『回し』と『仕切り』の二つがある。『回し』というは何か、妓どもたち(以下『娼妓』のことを記すのに、この文字『妓』をつかい『こ』と読む)が客をとるとき、一時にふたり以上の客をとることをいい、『仕切り』では、一時に妓はただひとりの客をとり、その客のあるあいだは他の客をとらないことをいう。」(大正編、p.53-54)
明治二十一年の開業当初は越後の新潟風を取り入れ関東風の「回し」制度でスタートした金津であったが、間もなく関西風の「仕切り」制度に転換。客引きも男の牛太郎を廃し、仲居があたるようになった。
「関東大地震のとき、職場を失った妓と幇間(たいこもち 男芸者)の幾人かが名古屋地方へ流れて来た。妓はどこにでも収まったが、幇間は関東地方の『回し』に、ご指名の妓があくまでの客をつなぐ役目を勤める。だが、『仕切り』のこの地方では働く場所がない。この風習を知らず流れこんだ幇間はびっくりして、ふたたび新潟へ向かった、という。」(大正編、p.59-60)
「回し」と「仕切り」の違いは建物の構造にも現れる。
「東西を問わず、妓楼の作りは吉原をはじめ、おおむね同じで、中央に小さい中庭(坪の内)をしつらえ、それを囲んで『ロ』の字型の二階屋を建てる。
階下は玄関、帳場、家人の居間、台所、娼妓の大部屋(いわゆる『ふとん部屋』)など『ケ』の空間である。
二階は商売専用の『ハレ』の舞台で、多勢が乗りこむときの接渉場、あるいは宴会用の広い座敷があり、後は『ロ』の字型に廊下をめぐらし、妓どもたちのそれぞれの持ち部屋(本部屋)が並んで、中庭に対している。(中略)
関東風の場合はこのほかに『回し部屋』のいくつかを用意しなければならない。『回し部屋』は多くが、二畳・三畳の、何の飾りつけもない、警察の留置場のように殺風景な部屋で、本部屋とても適当に『まわし』につかわれて、楼主が一時的に妓どもたちに貸した、あてがいの部屋だから、どれもこれも個性のない、一律の調度品で飾られていた。いわば商売上の舞台装置で生活の匂いがない。
金津の場合は『しきり』だから、全部が本部屋で、整然としている。
本部屋は一応、個人別に専用されているから、その中の家具・鏡台などの調度品に個人の匂いがする。しかしこの本部屋とて、(中略)一応の序列があり、前月の売上の高下によって変動があるから、油断はできない。(後略)」(大正編、p.60-62)
明治二十一年の開業から五十余年にわたり繁栄を極めた金津廓であったが、昭和十七年三月二十三日の浅野屋の廃業を機に、戦時下の逆風で凋落の一途を辿り、遂には「岐阜空襲」により灰燼に帰することとなる。
本書は、最初図書館で見つけた明治編が思いのほか面白く、勢い余って大正編と併せて古本を購入。大正編の序文に、出版援助を打ち切られたことによる自費出版の労苦や今後の出版継続を躊躇う内容が綴られていたため、続編はないものと思っていただけに、昭和編の存在を知った時は本当に嬉しく感じた。岐阜市の歴史を知りたいが県史や市史はハードルが高いという方にぜひオススメ。
第18回 金津園・大垣・名古屋・静岡・三重ソープ2023年の年末年始営業
早いもので2022年も残りあと僅か。皆様の今年のソープ遊びはいかがでしたでしょうか。今年も例年と同じくソープランド店リストに扇子マークで年末年始(大晦日と元旦)の営業状況をまとめてみましたので、ぜひご参考にしてください。
【年末年始営業の見方】
…31、1日ともに営業 …31日営業、1日休み(もしくは1日不明) …31日休み(もしくは31日不明)、1日営業 [無印]…31、1日ともに休み、もしくは不明(未定)
年末年始は営業時間が普段と異なり、受付開始時間が遅くなったり、受付終了時間が早まったりするケースがございます。元日に関しましては女の子の出勤状況によって、営業になったりお休みになったりするケースもございます。お店によってはまれに1/2(もしくは3日)までお休みのところもありますが、ほとんどのお店は1/2から通常営業となります。詳しくは、お店のホームページやお電話でご確認くださいませ。
年末年始の営業状況と併せて今年も全国のソープランドの軒数をざっくり調べてみました。新しくオープンしたり休業していたりという情報が後で分かる場合が多々ありますので、数字に若干ずれがあると思われますが、2022/12/29時点で全国でおよそ925軒(超高級4、高級85、中級20、大衆128、格安665、激安23)のソープランドが営業中でした。全体の軒数は去年に比べると若干増加が見られ、特に中洲エリアでは10軒以上のお店が新しくオープンしました。また、昨今の価格高騰の影響からか入浴料も全体的に上昇傾向で、お店の区分も超高級店+1、高級店+2、中級店+1、大衆店+20、格安店-21、激安店±0と変化が見られました。
当サイトにつきまして、ここ最近は関連書籍や住宅地図、昔のbbsなどを参考にコラムページのお店変遷リストや変遷マップを作成・手直ししたり、全国各地のソープ街を散策しながら写真撮影やマップ作成をしたり、吉原細見や月刊ミューザーなどのソープランド・トルコ風呂・遊廓関連本を蒐集したりしてきましたが、変遷リストについては、欲を言えば店名の変遷だけでなく、休業や営業の再開・系列の移動・経営の交代・業態転換や料金改定など大幅なシステム変更などの情報も盛り込みたいところ。他にも、まだとりかかれてない沼津・熱海・富士・釧路などのマップ作成や、買うだけ買って読めてない本もかなりの数に上ってきてるので、そちらも合間を見て少しずつ読んでいきたいです。
今年も沢山の皆様にソープ徹底攻略をご利用頂きまして有難うございました。2023年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
第17回 『岐阜市發展史』を読んで
今回は『岐阜市發展史』森義一/著(岐阜毎夕新聞社出版部)の紹介です。松尾國松市政の昭和8年に、岐阜毎夕新聞社創立18周年記念として森義一氏により編纂された岐阜市の発展史。古くは井の口と呼ばれる稲葉城の城下町だった岐阜が、明治21年の市制施行を経て遂には人口11万を数える近代都市へ変貌を遂げるその成長過程を政治・経済・金融・教育・観光・インフラ・衛生など様々な側面から検証している。
ちなみに本書には、新興都市の発展に欠くことのできない存在である花柳界についても、「華陽校書」「遊廓の變遷」「料亭と待合」「カフェーの勃興」の四節に分け詳しい解説がなされており、その中で遊廓の変遷については下記のように述べられている。
「戰國時代の城下町『井之口』當時には、梶川町界隈に女郎屋があつた、其の近くに上下茶屋町があるのは、それを物語るものであると古老が語つたことがある。確かな古文書に據つたのでないから、保證の限りでないが一説として掲げて置く。又岐阜落城直後の美濃代官、岡田將監時代までは、矢島横町にも遊女がゐて、傾城町または女郎横町(今の伊奈波三丁目)と呼んださうであるから、昔の女郎屋は一廓に集まらず、伊奈波以北梶川町邊にあつたことが想像される。それが何時の時代にか、未來濟度の美江寺觀音の大門へ、現世利益の生菩薩が集まつて、觀音さんの繩張りを荒す樣になつた、之が美江寺遊廓なので、現市役所邊から以西の兩側に、妓樓が軒を竝べてあり、明治時代には未だ其の面影を殘した家があつた。(後略)」(p.148)
その後「マリア・ルス号事件」を発端とする明治5年10月の「芸娼妓解放令」により美江寺遊廓は廃止となるが、翌6年の太政官布告で県令に遊廓設置の許可権が与えられた。
「(前略)其處へ町の有力者が、地方の發展には遊廓が必要であることをさとり、曩に藝子許可には反對建白をした人々が、一致して遊廓設置の許可願を小崎縣令へ提出し、運動の結果明治二十一年八月に至り漸く許可されることに決したので、出願者七人中五人は脱退する代り、權利金貳萬貳千圓を得て之を全部公共事業に投げだしたのであつた。
斯うした朗らかな話の下に、金津廓は同年八月二十一日を以て正式許可が下がつたのである。金津廓名については、開設者の一人坂井田民吉が、明治初年居村に上下金津町があつて、村内第一の繁華であつたので、廓の繁華を祈る爲めに、其の金津を採つて廓名に冠したのだといふ。尚金津廓には、東に正門西に裏門を設けて、東京吉原の構へを做つたものであつた。
(中略)金津廓開設當時から一年半位は、押すなゝの大景氣であつたが、珍らし物好きで飽つぽい岐阜ッ兒は、間もなく廓に飽いたと見えて客足が遠くなり、金津廓第一の受難時代が來た。その翌年は彼の濃尾の大震災が襲つた、廓も殆んど全滅したが、人間萬事塞翁が馬で、此の地震後に岐阜市復興の爲めに各地から入り込んだ職人達は、稼いては廓へ通つた爲め、ひとしきり八錢まで割引して、八錢樓の綽名さへつけられ、氣息奄々であつた金津廓は、忽ちにして全盛時代に歸つたのである。次いで二十六七年頃に又行詰つたが、天道人を殺さずで戰爭景氣が出て窮況を切り拔けた。」(p.149)
「廓には付き者の牛太郎は、金津廓にも矢張り居た時代もあつたが、弊害が多かつた爲め廢止され、仲居に代つて了つた。(中略)之より先明治三十五年十月には裏門を廢止し、同四十三年三月には驅黴院を新築して金津病院と改め、翌四十四年九月には、金津廓の功勞者坂井田民吉・大矢富治郎・千種治平三人の頌德碑を建設し、大々的除幕式を行つたのである。
大正九年九月十四日に至り、縣令を以て同廓の長い傳統であつた張店を禁止すると同時に、公休日の制度が實施され、從つて張店は寫眞に替へられたが、それから地廻り連の足が遠のき、自然遊廓衰靡の端緒となつたのである。次いで同廓では模範的な共同炊事場を經營することゝなり、當時の組合長加藤慶一氏及幹部淺野善吉・玉井芳吉兩氏が九州福岡市の柳町遊廓を視察する所あり、組合事務所及共同炊事場を改築する事となり大正十五年九月起工、昭和二年一月二十八日竣工を見た、これが現在の事務所なのである。同廓では明治三十年頃始めての花魁道中が行はれ、其の後數囘開催されたが、昭和七年初夏、遊廓の自力更生策として、モダンなカフェー化が許可されるに至り、同年十月中旬五日間に亘り、大々的な花魁道中を催して、金津廓の人氣を一擧に恢復した感がある。(後略)」(p.151)
第16回 『ふるさと・岐阜の歴史 150年の歩みを未来に』を読んで
今回は『ふるさと・岐阜の歴史 150年の歩みを未来に』後藤征夫/著(自費出版)の紹介です。教員を退職後、市の歴史博物館でガイドなどに携わる著者が岐阜に長く暮らす一市民としての目線で綴った岐阜の近現代史。
著者の後藤氏は岐阜県吉城郡神岡町(現在の飛騨市)生まれ。大学卒業後は県内の小中学校及び教育委員会に勤務し、退職後は岐阜市歴史博物館のボランティア活動に参加する中で、忘れ去られていく歴史を次の世代に伝え残すことの大切さを痛感し、権力者ではなく市井の人々にスポットを当てた岐阜の近現代史の執筆に取り組むことにした。
序盤の「岐阜の町の移り変わりと人びとの暮らし」は、以前読んだ『ふるさとの岐阜の物語』と内容的に重複する部分があるものの、本書でかなりページが割かれている「長良川の水害と治水」と「戦争と平和」という2つのトピックについては初めて知る史実が多く、収集された数多くの当事者の証言も胸を打ち、先人たちの苦難の歴史がこのように書籍に残されることがいかに重要かしみじみと実感させられた。
ちなみに、美濃の歴史は水害の歴史といってもいいほど木曽三川流域で暮らす人々は古来から水害に苦しめられており、江戸時代には宝暦治水と呼ばれる薩摩藩士による木曽三川の治水工事も行われ、その痛ましさに胸が潰れそうになる偉業は「ああ宝暦薩摩義士の歌」とともに今も当地で暮らす人々に語り継がれている。
なお、本書には金津遊廓についての記述はほとんどなかったものの、戦時中に各務原で操業していた川崎航空機について、戦争の激化にともなう規模の拡大や増員計画などが詳しく記されており、結果的に金津遊廓の手力移転にもつながってくるだけに興味深く読めた。また、個人的に関心のあった長良川の昔の川筋・長良古川・古々川についても、当時の写真や締め切り工事の様子などがまとめられており参考になった。
第15回 『柳ケ瀬百年誌』を読んで
俳優の木村拓哉さんと岐阜市出身の伊藤英明さんが出演する「ぎふ信長まつり」の騎馬武者行列をいよいよ明日に控え、岐阜市は空前の盛り上がりを見せていますが、今回は岐阜を代表する繁華街・柳ヶ瀬の『柳ケ瀬百年誌』(岐阜柳ヶ瀬商店街振興組合連合会)の紹介です。
明治22年(1889年)7月、岐阜市の市制施行により上加納村字柳ヶ瀬は岐阜市柳ヶ瀬町へと生まれ変わる。以来、先人たちの労苦とともに戦前・戦中・戦後の激動の1世紀を駆け抜けた柳ヶ瀬の歴史を当時の貴重な写真とともに振り返った一冊。
柳ヶ瀬一帯はかつて集落もなく、長良川の本流が間近に迫る田畑や沼地に覆われた場所であったが、笠松から岐阜町への県庁の移転や東海道本線の開通、岐阜停車場と県庁を結ぶ「八間道」の整備、さらには明治21年に開業した金津遊廓から八間道へ延びる新道の開通により、次第にその地の利に注目が集まりはじめる。
古くは本町から伊奈波界隈に形成された岐阜の繁華街も次第に南進し、明治44年「八間道」に「チンチン電車」が新設される頃には柳ヶ瀬辺りも人通りが増え賑やかになった。つい先日柳ヶ瀬に再出店を果たした服地・手芸専門店「江戸ッ子」の創業もその当時。大正5年、初代・中村友七が「借地料が他の一等地より安い。遊廓が近い。将来は必ず発展する」と信じ、モスリンの専門店を開店したことに始まる。
大正8年には市制施行30周年を記念した「内国勧業博覧会」が開催。跡地とその周辺には衆楽館や岐阜劇場、金華劇場などが次々とオープンし、柳ヶ瀬は大衆娯楽のメッカとしてもその名を響かせるようになる。大正の終わりになると、柳ヶ瀬町と若宮町をつなぐ弥生町と小柳町にも商店や待合、置屋、飲食店が建ち並びはじめ、大正11年には柳ヶ瀬町と神室町の間に新道日ノ出町ができ、柳ヶ瀬の回遊性はさらに高まった。
商店街が発展するにつれ、勧業博前後から呉服店が相次いで出店。続くテナント形式の百貨堂のオープン、京都駅前の丸物の進出など商店街の店舗構成にも変化が訪れる。昭和7年にはカフェーの全盛時代が到来。弥生町・小柳町から神田通りにかけて20軒を越すカフェーが建ち並び、翌年には岐阜カフェー・バー組合の加入店が87店に達した。
昭和12年、日中戦争がはじまると、順風満帆に発展を遂げる柳ヶ瀬にも暗雲が漂いはじめる。昭和15年にはカフェー・バー・待合が未曽有の繁昌を見せるが、経済統制によるスズラン灯の供出、強制疎開での建物取り壊しなど辛く厳しい時代を迎える。昭和19年には金津遊廓が手力に移転。川崎航空機の所有する手力の土地に金津を移し、空いた建物を地方から徴用した産業戦士たちの寮として活用するのが狙いだった。
そして20年7月9日。空襲により瓦礫の街と化した柳ヶ瀬は絶望の中で終戦を迎えるが、戦後は「柳ヶ瀬座」「演技座」「豊富座」などの芝居小屋が復興を牽引。終戦後1年目を迎える頃には一帯の店舗数は286軒(うち174軒が飲食店)を数えるまでになった。
以降は、高度経済成長の波に乗り、柳ヶ瀬はさらなる飛躍を遂げる。本通りに映画館が建ち並ぶ様子は「岐阜のブロードウェー」と例えられ、キャバレーやバーの増加は夜の柳ヶ瀬に活気を与えた。41年には美川憲一の「柳ヶ瀬ブルース」が大ヒット。「柳ヶ瀬」の名は一躍全国区となった。
本書には写真を始め、柳ヶ瀬にまつわる様々な資料が収録されている。中でも、関係者の聞き取りをもとに作成された昭和18年頃の柳ヶ瀬の町並み・家並みの地図は、小柳町一帯のカフェー街、日ノ出町に建ち並ぶ劇場群、神室町の旅館街、丸物百貨店、ヨード温泉など往時の全盛を偲ぶことができ、とても興味深い。
また、金津遊廓の誕生から終焉までをまとめた特集「金津物語」も読みごたえがあり、大正時代のおいらん道中やカフェー化が始まった頃と思われる金津遊廓の写真、昭和45年の新聞に掲載された金津大門のイラストなど、これらを見るためだけでもこの本を買って良かったと思わせるほど。
本書が刊行された昭和63年は、まだ近郊にイオンやモレラなどの大型ショッピングモールもなく、柳ヶ瀬には高島屋をはじめ、近鉄百貨店、近鉄アミコ、長崎屋、センサなどデパートやスーパーが多く建ち並び、最新の流行に出会える場所として十分魅力的だったと思われる。
ライフスタイルの変化により中心市街地の集客力が落ちてくるのは仕方のないことかもしれないが、今回の騎馬武者行列のようなイベントを通して岐阜市や柳ヶ瀬の良さがまた多くの人に伝わり、再び岐阜に足を運ぶきっかけになればと思う。
第14回 『岐阜花街案内』を読んで
今回は『岐阜花街案内』岐阜花街案内社/編(岐阜花街案内社)の紹介です。
1936年(昭和11年)3月25日から5月15日にかけて岐阜で開催された「躍進日本大博覧会」を訪れる観光客に向けて書かれたガイドブック(非売品)。内容は、岐阜の歴史や名所旧跡、名物、民謡の紹介にはじまり、映画館や劇場、飲食店、旅館案内、その他表題にもなっている花柳界や芸妓一覧、笑婦街、カフェー、金津遊廓など夜遊び情報も特集され、これ一冊で岐阜観光を満喫できる充実したつくりとなっている。
ちなみに「躍進日本大博覧会」は現在の岐阜公園の辺りで開催され、会場には「噴水塔」「卿土館」「第一・第二産業本館」「海女館」「住宅展」「山林館」「煙草專賣館」「國防館」「演藝館」「滿洲館」「美濃紙製造實演場」「岐阜縣館」「岐阜市館」「敎育健康館」「農林館」「子供の國」「水族館」「逓信館」「ラヂオ館」「觀光館」「外國餘興館」「近代科學館」「愛知名古屋館」「台灣館」「國産館」「朝鮮館」「野外演舞場」「三重塔(高野山出開帳)」「岐阜日日館」「關刀劔鍛鍊場」「茶道館」「迎賓館」「宗敎館」「昆蟲館」といったパビリオンが建ち、博覧会を記念して作られた「躍進をどり」を華陽芸妓が踊るなど官民総出で盛り上げようとする意気込みは、時代は違うが88年のぎふ中部未来博のような感じだったのかもしれない。
当時の岐阜の繁華街については、「柳ヶ瀬通りには魔天堂丸物百貨店がその入口に巍然として中央に聳え、その向ひ側には百貨堂が巨體を横へ、長谷川小間物店、百助、モンパリ食堂、その他高層な商店が羅列し中央より右せんか、岐阜名物の一つである岐阜劇場が、華麗なる新装を凝らし、金華劇場、靑雲館、衆樂館、小劇場等の興業館が行人を呼び込み、その間にカフェー、バァー、喫茶店などが櫛比し、戸外に漏れる蓄音器のリズムは散歩の人の心を浮かせずには措かない。更に小柳町を北進して小柳小路に入れば、これこそ眞のカフェー街で、パリージャン、ヒカリ、赤玉、三すじ、ゆめぢ、満洲樓等々、ネオンに色どる華やかさは、別世界の感を深くせしめ、花のやうに美しい彼女等が胡蝶のやうに振袖を春風に、なびかせて行き交ふ有樣は、若人の血を湧かせるに足る」と描写されている。(P10)
ちょうど『柳ケ瀬百年誌』(岐阜柳ヶ瀬商店街振興組合連合会)という本に昭和18年ころの柳ヶ瀬の町並みの地図が載っており、それと併せて読むとイメージしやすい。
外にも興味深い内容の多い中、笑婦街やカフェー、遊廓について書かれた箇所を下記に引用しておく。
P38 笑婦街
「『貴方、遊んで行きやーせ、一杯やりませうようんモチよ』
てな挑發的言辭を弄して、若人を引張る飮食店(私娼窟?)は未だ市内には相當散在して、私服の巡査を知らず袖を引張つて、三四日拘留處分を受ける彼女のある事は、時折三面子の告ぐる處であるが、名古屋市その他の都市のやうな、軒を並べた魔窟は無くなつた。岐阜市に斯うした魔窟が解消されて行く原因は、取締りの嚴重さよりも遊廓の發展と、異狀な勢ひで伸長して來た、カフェー喫茶店の進出によるところが多い。
強ひてそれかと思はれるものを探査すれば、岐阜劇場の裏から神室町、金町へかけての一圓と金津廓の北裏、梅川町あたりから大正町へ亘る一廓更に遠く離れて岐阜驛から東へ約三丁、安良田町通り及びその北にある長住町邊に散在して、夕暗迫る頃、彼女等は、濃厚な化粧に眉を引き戸口の前に腰打ちかけて、好き椋鳥御ざんなれと梟の樣な目を光らして網を張るのだ、保険上の事を考へぬとせば、彼女に抱擁されて一夜の歡樂を夢みるのも亦經濟的である。」
P38 カフェー
「常にフレッシュな時代の空氣を漲ぎらせて、まばたくネオンのもと、酒と脂粉の香漂よふ歡樂の巷カフェー。先進大都市を凌ぐモダンな施設と洗練されたサービスを誇る岐阜市の純カフェーは約九十軒、三百人内外の美人女給を擁して、スマートな時代人士の來遊に備へてゐます。
昭和四年頃すでにジャズバンドを置く、世界長、その他超弩級のカフェーを出現、名古屋の業者を驚倒させた岐阜市の業者等が、今日施設その他の點にどんな素晴らしい進境をあらはしてゐるか。(中略)
カフェーは主として、岐阜市の銀座と云はれる盛り場柳ヶ瀬附近の、小柳小路、若宮町、日乃出町、樂天地の一帶が中心となり、千手堂、徹明町、昭和町、高野町、金町、眞砂町方面及び驛前附近その他に散在してゐる。
軒並のカフェー街日乃出町、小柳小路方面中小柳小路は特に岐阜市の新名所とまで云はれるところ、戸毎のネオンは夜をこめて競ひ輝き、七、八名乃至二十名内外の麗人を揃へての競艶ぶり。
唄とレコードに合はせて、輕ろく巧みなステップを踏むもの、或は軟かくしとやかなサービスに顧客も陶然たらしめるものなど、素晴らしく洗練された美人軍を擁して趣向を競ふ、モダーンカフェーの集團地であり、日乃出町方面はこれに次ぐもの、またその他の各地に散在するカフェーも散らばつてこそ居れ、何れ劣らぬ美人と施設を誇つてゐる。」
P44 金津遊廓のカフェー化
「岐阜市の不夜城金津遊廓は、昭和六年四月全國の尖端を切つて、現笠松町長當時の岐阜署長山本淸之助氏の英斷で藝妓の併置が認可された、當時カフェーの進出で遊廓は非常な影響を受けてゐたが、更に藝妓併置に續いて彼女等の多年の宿願であつた街頭進出が認められるに至つた、昔時は高島田姿で張店臺から素見客を手招いたものが、時代の變遷と共に此の時からいよいよ女給と同等に直接客の手を握つてサービスするに至つた。
従つてその姿にも異狀な變化を來たし、高島田の昔乍らの女郎姿は漸く減じて、オールバックのモダン姿となつた、更に昨今は洋裝斷髮の超モダン美人が激增し、カフェーの女給そつくりとなつた、各樓も昔からの屋號まで大膽にかなぐり捨てて、何々會館とか云ふ風にモダン家號に變更するものがあり、店構へは一軒殘らず多額の費用を投じて改造された。
ウチカケ姿の女郎が格子の中から素見客に對し、長キセルで「あなたちよいと…」と呼かけて客の袖にキセルを卷きつけて登樓を勸誘した昔時の面影は全く消えて了つて、やわらかいソファに腰を下すと、オールバックや斷髮の彼女等が近代言葉を使用してもたれかかつて來る、コーヒー、ソーダ水、カルピス等々、アルコール類の外の飮物は何んでも十錢均一で提供しオールサービスをするのである、近代戀愛哲學の第一項なる、男女の理解が成立すると登樓する、然らざれば十錢也で隨意に他のホールに移ることが出來ると云ふ譯で本當のカフェー化となり夕暗迫る頃からジャズの騒音で賑はしい。
かくして金津遊廓は此處數年間に異數の發展を示し、一時は娼妓四百五十名内外であつたのが、本年三月現在では藝妓三百五十六名、娼妓三百五十四名合計七百十名に激增してゐる、藝妓は取締規則では滿十四歳から下附されるが、特に組合の申合自制で滿十六歳から雇ひ入れてゐる、昨今は毎日組合事務所樓上で三味線、舞踊等の練習に餘念なく、時々溫習會を催し今藝術も一般に認められるに至つた。」
P48 東海一を誇る淺野屋
「東京大阪の豪商紳士を始め、あらゆる名士が鵜飼見物に事かづけ、岐阜へシケ込むところに金津の淺野屋がある。淺野屋は東海否日本一の遊女屋であるとの噂は、一度岐阜へ足を入れたものは誰もが知つてゐる淺野屋がなぜこんなに有名になつたか、それは此處に限つて遊女屋へ來たやうな氣分を一掃して了ふことである。部屋の美麗なことは云ふまでもなく、男女風呂などあつて各種の設備が整ひ、娼妓の素養は決して全國にその比を見ないであらう。鳴物、舞踊は云ふまでもなく、謠曲、義太夫、長唄、常盤津を始め、生花、茶の湯、圍碁に至るまで常に練習して客の相手をするのである更に特徴は約三十人の妓が何れおとらぬ美人揃ひである。從つて此處には店先にホールや寫眞の設備はないが、登樓してから後悔するやうなことは決してない。主人淺野善吉氏は一風變つた人で、資力のない前途ある靑年に對しては年々多額の學資金を提供してゐる。今日まで淺野氏に依つて大學を出た人は數へることが出來ない。淺野屋に續いて豊本樓がある。新豊本と親戚で双方共淺野屋につぐ第一流で建物の立派なことはたしかに随一である。部屋の構造等は昔の遊女屋を思ひ出すには十分な豪壯なもので娼妓も皆美人揃である。」
第13回 金津園・大垣・名古屋・静岡・三重ソープ2022年の年末年始営業
早いもので2021年も残りあと僅か。皆様の今年のソープ遊びはいかがでしたでしょうか。今年も例年と同じくソープランド店リストに扇子マークで年末年始(大晦日と元旦)の営業状況をまとめてみましたので、ぜひご参考にしてください。
【年末年始営業の見方】
…31、1日ともに営業 …31日営業、1日休み(もしくは1日不明) …31日休み(もしくは31日不明)、1日営業 [無印]…31、1日ともに休み、もしくは不明(未定)
年末年始は営業時間が普段と異なり、受付開始時間が遅くなったり、受付終了時間が早まったりするケースがございます。元日に関しましては女の子の出勤状況によって、営業になったりお休みになったりするケースもございます。お店によってはまれに1/2(もしくは3日)までお休みのところもありますが、ほとんどのお店は1/2から通常営業となります。詳しくは、お店のホームページやお電話でご確認くださいませ。
年末年始の営業状況と併せて今年も全国のソープランドの軒数をざっくり調べてみました。新しくオープンしたり休業していたりという情報が後で分かる場合が多々ありますので、数字に若干ずれがあると思われますが、2021/12/30時点で全国でおよそ922軒(超高級3、高級83、中級19、大衆108、格安686、激安23)のソープランドが営業中でした。今回も別館として稼働しているお店はカウントしてませんが、去年に比べると全体の軒数が若干増え、特に吉原と土浦ではお店の数が合わせて10軒以上増えました。
当サイトについては引き続き、気になったエリアを散策したり、関連書籍や住宅地図を参考にコラムページのお店変遷リストと変遷マップを作成・手直ししたり、余裕があれば沼津・熱海・富士・釧路など未作成エリアのマップも作成していきたいです。
今年も沢山の皆様にソープ徹底攻略をご利用頂きまして有難うございました。2022年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
第12回 金津園・大垣・名古屋・静岡・三重ソープ2021年の年末年始営業
早いもので2020年も年の瀬ですね。今年はコロナ禍で、お店のスタッフさんやコンパニオンさんをはじめ関係者の皆様にとっても感染対策に追われたりと大変な一年だったことと思います。今年も例年と同じくソープランド店リストに扇子マークで年末年始(大晦日と元旦)の営業状況をまとめてみましたので、最近なかなか遊びに行けなかった方も、オンラインのお仕事が増えてお疲れの方も、感染対策に気を付けながら2020年を締めくくる素敵な姫納め・姫初めをお楽しみくださいね(*^^*)♪
【年末年始営業の見方】
…31、1日ともに営業 …31日営業、1日休み(もしくは1日不明) …31日休み(もしくは31日不明)、1日営業 [無印]…31、1日ともに休み、もしくは不明(未定)
年末年始は営業時間が普段と異なり、受付開始時間が遅くなったり、受付終了時間が早まったりするケースがございます。元旦に関しましては女の子の出勤状況によって、営業になったりお休みになったりするケースもございます。お店によってはまれに1/2(もしくは3日)までお休みのところもありますが、ほとんどのお店は1/2から通常営業となります。詳しくは、お店のホームページやお電話でご確認くださいませ。
年末年始の営業情報と併せて今年も全国のソープランドの軒数をかなりざっくり調べてみました。新しくオープンしたり休業していたりという情報が後で分かる場合が多々ありますので、数字に若干ずれはあると思われますが、2020/12/29時点で全国でおよそ915軒(超高級3、高級87、中級18、大衆100、格安690、激安17)のソープランドが営業中でした。去年との軒数の違いについては、コロナ禍による閉店・休業もありますが、部屋貸し専門など別館として稼働しているお店を一部カウントしなかったり、電話が切られていて営業しているかどうか分からないお店を外したり、広島エリアのソープヘルスを一部追加したり、今までリストに載ってなかったお店(玉戸スチームバスなど)を追加したりもしたので、見かけ通りに軒数が増減しているとは言えない状況です。
サイトについては、当初予定していた全エリアの散策は来年以降にいったん持ち越すことにして、引き続き今まで収集した関連書籍を読みすすめながら、コラムページのお店変遷リストと変遷マップを手直ししたり情報を追加したりしていきたいと思います。
今年も沢山の皆様にソープ徹底攻略をご利用頂きまして有難うございました。2021年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
第11回 金津園・大垣・名古屋・静岡・三重ソープ2020年の年末年始営業
早いもので2019年も大晦日ですね。皆様の今年のソープ遊びはいかがでしたでしょうか。今年も例年と同じくソープランド店リストに扇子マークで年末年始(大晦日と元旦)の営業状況をまとめてみましたので、ぜひご参考にして下さい。
【年末年始営業の見方】
…31、1日ともに営業 …31日営業、1日休み(もしくは1日不明) …31日休み(もしくは31日不明)、1日営業 [無印]…31、1日ともに休み、もしくは不明(未定)
年末年始は営業時間が普段と異なり、受付開始時間が遅くなったり、受付終了時間が早まったりするケースがございます。元旦に関しましては女の子の出勤状況によって、営業になったりお休みになったりするケースもございます。お店によってはまれに1/2(もしくは3日)までお休みのところもありますが、ほとんどのお店は1/2から通常営業となります。詳しくは、ご来店前に各お店のオフィシャルHPやお電話などでご確認の上、素敵な姫納め、姫初めをお楽しみ下さいませ♪
年末年始の営業情報と併せて今年も全国のソープランドの軒数をかなりざっくり調べてみました。新しくオープンしたり休業していたりという情報が後で分かる場合が多々ありますので、数字に若干ずれはあると思われますが、2019/12/29時点で全国でおよそ964軒(超高級3、高級102、中級16、大衆108、格安722、激安13)のソープランドが営業中でした。
サイトについては、去年全エリアのソープランドリストの作成が終わりましたので、今年はソープ街マップがまだ作成できていないエリアのうち、「姫路」「尼崎」「福井」「片山津」の4エリアを散策しながら、マップの作成と写真撮影を行いました。東海地方を中心に未散策エリアがまだいくつか残っていますので、できれば来年中に全エリアの散策を終え、現在収集中の遊郭・ソープランドの関連書籍も読み進めていきたいと思います。
今年も沢山の皆様にソープ徹底攻略をご利用頂きまして有難うございました。2020年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
第10回 金津園・大垣・名古屋・静岡・三重ソープ2019年の年末年始営業
早いもので2018年も大晦日ですね。皆様の今年のソープ遊びはいかがでしたでしょうか。今年も例年と同じくソープランド店リストに扇子マークで年末年始(大晦日と元旦)の営業状況をまとめてみましたので、ぜひご参考にして下さい。
【年末年始営業の見方】
…31、1日ともに営業 …31日営業、1日休み(もしくは1日不明) …31日休み(もしくは31日不明)、1日営業 [無印]…31、1日ともに休み、もしくは不明(未定)
年末年始は営業時間が普段と異なり、受付開始時間が遅くなったり、受付終了時間が早まったりするケースがございます。元旦に関しましては女の子の出勤状況によって、営業になったりお休みになったりするケースもございます。お店によってはまれに1/2(もしくは3日)までお休みのところもありますが、ほとんどのお店は1/2から通常営業となります。詳しくは、ご来店前に各お店のオフィシャルHPやお電話などでご確認の上、素敵な姫納め、姫初めをお楽しみ下さいませ♪
年末年始の営業情報と併せて今年も全国のソープランドの軒数をざっくり調べてみました。新しくオープンしたり休業していたりという情報が後で分かる場合が多々ありますので、数字に若干ずれはあると思われますが、12/29時点で全国でおよそ965軒(超高級3軒、高級105、中級17、大衆122、格安706、激安12)のソープランドが営業中でした。
今年は、去年の中国・四国エリアに続き、東北エリアのソープ街を散策しました。東北には仙台・国分町や秋田・川反、福島・小名浜など穴場的なソープ街がいくつかあり、お手頃料金で良嬢と遊べるお店が数多くあります。ソープ以外でも東北はグルメや温泉など楽しみが多く、旅行を兼ねて風俗巡りをするのにオススメのエリアです。よろしければこちらもご覧下さい。
>>東北ソープ徹底攻略 | 岩手・秋田・宮城・福島ソープランド情報
サイトに関しては、ソープ街マップを作成していないエリアがまだいくつかあるので現在少しずつ追加中です。今年はソープランド調査と並行して、かつて遊郭があった場所の散策も行いました。旧遊郭跡地は場所によっては、今もなお遊郭時代の建物や遺構が残されていることが多く、当時の情緒や雰囲気を直に感じることができます。遊郭はその後の赤線やカフェー、特殊飲食店などにもつながっていて、遊郭についての知識を深めることはソープ街の成り立ちを知る上でも欠かせないので、現地調査とあわせて関連書籍や文献も読み進めていきたいです。
今年も沢山の皆様にソープ徹底攻略をご利用頂きまして有難うございました。2019年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
第9回 金津園・大垣・名古屋・静岡・三重ソープ2018年の年末年始営業
早いもので2017年も残り後わずかですね。皆様の今年のソープ遊びはいかがでしたでしょうか。今回も例年と同じくソープランド店リストに扇子マークで年末年始(大晦日と元旦)の営業状況をまとめてみましたので、ご参考にどうぞ。
【年末年始営業の見方】
…31、1日ともに営業 …31日営業、1日休み(もしくは1日不明) …31日休み(もしくは31日不明)、1日営業 [無印]…31、1日ともに休み、もしくは不明(未定)
年末年始は営業時間が普段と異なり、受付開始時間が遅くなったり、受付終了時間が早まったりするケースがございます。元旦に関しましては女の子の出勤状況によって、営業になったりお休みになったりするケースもございます。お店によってはまれに1/2(もしくは3日)までお休みのところもありますが、ほとんどのお店は1/2から通常営業となります。詳しくは、ご来店前に各お店のオフィシャルHPやお電話などでご確認の上、素敵な姫納め、姫初めをお楽しみ下さいませ♪
年末年始の営業情報のついでに全国のソープランドの軒数もざっくり調べてみたところ、全国で983軒(超高級2軒、高級107、中級18、大衆132、格安711、激安13)でした。
エリアとして一番多いのは東京・吉原141(高級53、中級3、大衆36、格安48、激安1)で、それに続くのは、中洲82(高級7、中級6、大衆13、格安54、激安2)、福原60(高級12、大衆4、格安44)、堀之内55(超高級1、高級13、大衆9、格安30、激安2)、金津園45(超高級1、高級6、中級6、大衆10、格安22)、熊本42(中級1、大衆10、格安31)、すすきの38(大衆2、格安34、激安2)、雄琴33(高級6、大衆5、格安22)といった感じです。
このコラムも最近は年末年始営業のお知らせ告知コーナーになってきてますが(^^ゞ、余裕があれば各地域の歴史や街ネタなどをどしどし取り上げたいところです。ちなみに、今年は主に中国・四国地方のソープ街を散策していまして、先日アップしました「広島ソープ徹底攻略」にリストやマップなどをまとめてあります。
中国・四国地方のソープ街は、大きなところで広島の弥生町、鳥取の皆生温泉、下関のまるは通り、愛媛の道後温泉、高松の城東町、徳島の栄町・鷹匠町、高知の堺町などがあり、軒数が少ないところで島根の玉造温泉、岡山の田町、香川の琴平などがあります。いくつかのエリアで何軒か遊んでみたのですが、料金がお手頃で良嬢がかなり多い印象でした。
探索した街並みの写真は各エリアの認証ページ(一番最初のページ)の下の方にある「○○百景」というコーナーに説明文つきで掲載しつつ、「Google+」や「Facebook」にもグルメ情報や宿泊先の温泉・ホテル情報などを載せていますので、街歩きのご参考にして頂ければと思います。一応今後の予定としては、東北をはじめ、まだ訪問してないエリアを作成しつつ、余裕があれば各地域の歴史なども調べていきたいと思います。
今年も沢山の皆様にソープ徹底攻略をご利用頂きまして有難うございました。2018年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
第8回 金津園・大垣ソープ2017年の年末年始営業
早いもので2016年も残り少なくなってまいりました。という訳で今回も例年と同じくソープランド店リストに扇子マークで年末年始(大晦日と元旦)の営業状況をまとめてみました。
【年末年始営業の見方】
…31、1日ともに営業 …31日営業、1日休み(もしくは1日不明) …31日休み、1日営業 [無印]…31、1日ともに休み、もしくは不明(未定)
年末年始は営業時間が普段と異なり、受付開始時間が遅くなったり、受付終了時間が早まったりするケースがございます。元旦に関しましては女の子の出勤状況によって、営業になったりお休みになったりするケースもございます。お店によってはまれに1/2(もしくは3日)までお休みのところもありますが、ほとんどのお店は1/2から通常営業となります。詳しくは、ご来店前に各お店のオフィシャルHPやお電話などでご確認の上、素敵な姫納め、姫初めをお楽しみ下さいませ♪
今年も沢山の皆様に金津園ソープ徹底攻略をご利用頂きまして有難うございました。2017年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
第7回 金津園・大垣ソープ2016年の年末年始営業
早いもので2015年も残り少なくなってまいりました。という訳で今回も例年と同じくソープランド店リストに扇子マークで年末年始(大晦日と元旦)の営業状況をまとめてみました。
【年末年始営業の見方】
…31、1日ともに営業 …31日営業、1日休み(もしくは1日不明) …31日休み、1日営業 [無印]…31、1日ともに休み、もしくは不明(未定)
年末年始は営業時間が普段と異なり、受付開始時間が遅くなったり、受付終了時間が早まったりするケースがございます。元旦に関しましては女の子の出勤状況によって、営業になったりお休みになったりするケースもございます。お店によってはまれに1/2(もしくは3日)までお休みのところもありますが、ほとんどのお店は1/2から通常営業となります。詳しくは、ご来店前に各お店のオフィシャルHPやお電話などでご確認の上、素敵な姫納め、姫始めをお楽しみ下さいませ♪
今年も沢山の皆様に金津園ソープ徹底攻略をご利用頂きまして有難うございました。2016年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
第6回 ぎふ長良川鵜飼と長良川温泉フォト
岐阜の夏の風物詩といえば「ぎふ長良川鵜飼」ですね♪1,300年以上という長い歴史をもち国の重要有形民俗文化財にも指定されている長良川の鵜飼は毎年5/11~10/15まで毎日開催され、期間中は約10万人もの観覧客が訪れます♪今回は近くの「ぎふ長良川温泉」の各旅館で企画されている鵜飼観覧船乗船料と宿泊・食事がセットになった「鵜飼パック」を利用して、6月最後の週末日曜日に鵜飼を観に行ってまいりました(*^^*)♪
2、3日前までは土日は雨の予報だったのですが、いざ週末になってみるとお天気も良くなって鵜飼観覧にはもってこい(*^^*)♪日曜日の夕方岐阜駅に到着し、タクシーで今回の宿泊先「鵜匠の家 すぎ山」(住所 〒502-0071 岐阜市長良73-1/TEL 058-231-0161)へ向かいます。旅館の場所は長良橋から長良川の右岸を400mほどさかのぼったあたりで、ちょうど川を挟んだ向かいに金華山と岐阜城を望む抜群の立地。旅館の前は長良川の清流に沿って遊歩道が整備され、青々とした山の緑と澄み切った清流を眺めながらの散策は気持ちをとても穏やかにしてくれます。
17:30に旅館のロビーへ集合し、車で長良橋の南側のたもとにある鵜飼観覧船のりばへ送ってもらいます。のりばにはすでに人だかりができていて、海外からの観光客や浴衣姿の女性もちらほら見えます。17:45から鵜匠による鵜飼の説明。熱のこもった説明に時折ユーモアを混ぜた絶妙は語り口。鵜飼は鵜と人間とが情を通い合わせながら行う共同作業で、父から子へ、子から孫へ受け継がれるその技はまさに岐阜の心を体現しているのだと実感します。
その後10艘~20艘くらいの観覧船に20~40人ずつくらいに分かれて乗り込み、18:15に乗り場を出航、1.5kmほど上流に設けられた食事用の係留場所へ向かいます。観覧船にはトイレがついており、近くにはトイレ専用船も停泊しているのでいざという時も安心。食事は旅館が用意してくれたお弁当で、お重に入った和食中心の手の込んだ料理の数々に舌鼓♪旅館が船を横付けにして焼きたての鮎の塩焼きを届けてくれたりと至れり尽くせり♪川面を吹き抜ける風も心地よくビールがひときわ美味しく感じられます♪
1時間ほどの食事タイムの後ボランティアの方による鵜飼の説明があって、19:45に鵜飼の開始の花火が上がると、鵜匠の乗った船が上流からかがり火を炊いて川を下っていきます。空に上った大きな月とライトアップされた岐阜城、川の上で煌煌と輝くかがり火に照らし出された鵜匠と鵜たちの姿は思わず見入ってしまうほど優美で趣があり何とも言えない味わいがあります。
鵜飼のクライマックスを飾る総がらみでは6隻の鵜舟が横に並んで一斉に鮎を浅瀬に追い込みます。鵜飼の終了は20:30くらいで、その後は再び鵜飼観覧船のりばへ戻り、送迎のバスに乗って旅館へ戻ります。旅館到着後は食堂で出来立ての鮎雑炊を堪能♪鮎の風味がふんだんに感じられる雑炊はまさに絶品♪食後は温泉にゆっくり浸かって、マッサージをしてもらって、ぐっすり就寝しました(*^^*)♪
旅館に関しては美しい自然に囲まれた静かで落ち着いた立地もさることながら、歴史を感じさせる内装はとても趣があり、部屋からの眺めも良く、温泉もとても気持ちよく満足感たっぷりの内容♪朝食は風味豊かな朴葉味噌や色とりどりのおかずなど味・ボリュームともに◎♪仲居さんやスタッフの方たちの接客も行き届いていて非常に快適な時間を過ごす事ができました(*^^*)♪
長良川温泉街から金津園まではタクシーを利用して約20分で料金は2,500円前後。鵜飼観覧の後に金津園に行くのは時間的に少し厳しそうですが、普通の宿泊だけでしたらお食事の後に金津園でゆったり羽を伸ばされるのもいいですね♪ご出張やご旅行で岐阜へいらっしゃる方はぜひ一度長良川温泉でごゆっくりと日ごろの疲れを洗い流されてみてはいかがでしょうか(*^^*)♪
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第5回 金津園・大垣ソープ2015年の年末年始営業
早いもので今年も残り少なくなってまいりました。今回も去年と同じようにソープランド店リストに扇子マークで年末年始(大晦日と元旦)の営業状況をまとめてみました。HPで分かる範囲で掲載していますので、詳しくは各お店までお電話にてお問い合わせ下さい。今年も沢山の皆様に金津園ソープ徹底攻略をご利用頂きまして有難うございました。2015年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
第4回 金津園・大垣ソープ2014年の年末年始営業
今回も去年と同じ感じでソープランド店リストの方に扇子マークで年末年始(大晦日と元旦)の営業状況をまとめてみました。HPで分かる範囲で掲載していますので、詳しくは各店までお電話にてお問い合わせ下さい。今年も沢山の皆様に金津園ソープ徹底攻略をご利用頂きまして有難うございました。2014年もよろしくお願い致します。
第3回 岐阜・大垣市内の桜フォト
この記事を書いているのはちょうど2013年桜シーズン真っ只中の3/31ですが、今年から岐阜・大垣市内の桜の名所を巡って桜フォトを少しずつストックしていくことにいたしました♪もちろ~んお花見でいい気分になった後は可愛いピチピチGALが勢揃いの金津園・大垣ソープですっきりリフレッシュしちゃいましょう~(*^^*)♪
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第2回 金津園の歴史
現在、加納水野町に一大ソープ街を形成し全国にその名を知られる金津園ですが、その歴史は岐阜市の発展と密接に結び付き、岐阜という地域を深く知る上でもその存在は決して無視できないものです。風俗、ソープという業態の性格上、ややもすれば歴史の陰に埋もれがちではありますが、かねてより長良川の鵜飼とともに岐阜の観光産業の躍進に大いに寄与した金津園、そして金津遊郭の歴史を今一度深く掘り下げて調べてみることにしました。
金津園の前身、金津遊郭が西柳ヶ瀬に誕生したのは今から124年前の明治21年(1888年)のこと。それ以前は美江寺大門前の妓楼や加納宿の旅籠屋などが娼妓や芸妓、飯盛女を抱えて営業していましたが、明治5年(1872年)のマリア・ルス号事件を発端とする芸娼妓解放令により、単なる宿屋への転業や廃業を余儀なくされました。その後東京府をはじめ、愛知、三重など多くの県で貸座敷業として遊郭の設置が許可されましたが、岐阜県では許可されず県民はしかたなく川筋を下って桑名まで遊びに行っていたそうです。ちなみにその頃の岐阜市はまだ岐阜町で、当時繁華街は末広町から伊奈波にかけて広がっていました。そんな中明治15年(1882年)には芸妓の開業が許可されました。当時の芸妓は「華陽芸妓」として岐阜の繁栄に大きな役割を果たしています。
その後時代の進展とともに遊郭の必要性が論じられ、明治18年(1885年)には小林哲治郎、渡辺甚吉、坂井田民吉らが発起人となり遊郭設置運動が展開されます。「岐阜ハ日ニ月ニ発展シ居ル繁昌都市也、近隣ハ遊郭ヲ許サレ居ルニモ拘ラズ唯本縣ノミガ許サレザルハ実ニ恥辱ナリト思料ス云々」という遊郭開設の認可嘆願書に対して、内務省は「四隣ハ遊郭アルモ貴縣ノミ遊郭ナキヲ以テ誇トスベキニ拘ラズ、恥トハ何事ナリヤ、心得違ヒモ甚シク関係者一同ニ、篤ト申シ聞カセラレタシ云々」と拒絶しましたが、明治20年(1887年)、小林哲治郎、大屋富次郎、千種治平、坂井田民吉が発起人となって再度開設運動が起こされ、今回は理論的に遊郭の必要性を論じ開設を嘆願したところ、「申ス如ク正当ナルモノト認ム」として開設が仮認可されました。折しも明治21年(1888年)、市制、町村制が公布され、岐阜町でも市制移行のための市区整理などに要する費用を賄うために遊郭の設置は必要不可欠でした。そこで、早速候補地に挙がった上加納村字金津及北海道の一郭において普請が開始され、普請竣功の明治21年7月30日に正式に許可され、同年8月16日より向こう15年間の営業が許可されることとなりました。(地図の下へ続く)
↓森義一『岐阜市發展史』(岐阜毎夕新聞社出版部、1933)と岐阜花街案内社編『岐阜花街案内』(岐阜花街案内社、1936)に挿入された旧金津遊廓の見取図をもとに作成した地図を、同じ場所の昭和30年(1955年)以降の住宅地図と比較しながら遊廓移転後の西柳ケ瀬の街並みの移り変わりについて調べてみました。ちなみに旧金津遊廓内の花吹町と仲ノ町、あと雲雀町の斜めの筋は戦後の区画に残っていないため正確な位置は不明。また廓内の妓楼の正確な位置も不明。昭和30年以降の住宅地図内の店舗名は不正確と思われるものもいくつか見られますがそのまま記載しています。
明治21年11月3日金津郭において2軒の妓楼が開業し、明治22年正月には22軒にまで増え、最初の内こそ押すな押すなの大盛況だったものの、町並みから離れた田圃の中の一郭という土地柄のためか次第に客足も遠のき、妓楼の経営も日に日に厳しくなってきました。ところが、明治24年(1891年)10月28日の濃尾大震災によって、昔の美江寺大門前を始め小熊の東別院大門以北から岐阜市はほとんど灰燼となったものの、新しく出来たばかりの金津郭は完全に焼け残り、岐阜市復興のため各地から入り込んだ職人たちが稼いでは廓に通ったため、たちまち全盛を迎え、その後の金津郭の繁栄の基礎を築き上げました。
【張店について】 遊郭のシステムで「張店(張見世)(はりみせ)」というものがありますが、張店とは、テレビの時代劇でも見られるように、格子越しにお客が品定めできるよう娼妓が店の往来に面した所に居並んでお客を待つことを言います。美江寺大門前時代の張店はすべて道路に面して並んでいましたが、金津郭になってからは形式が一変、貸座敷という事になり、張店も全部家の内部で格子を立てて並んでいたそうです。
明治33年(1900年)、函館の娼妓坂井フクの廃業訴訟に端を発し、全国で娼妓自由廃業運動が吹き荒れます。当時の娼妓は前借金で縛られた年季奉公の身であったため、足を洗うには自分の意志でやめる自由廃業が近道でした。ただ、廃業の自由はありましたが、その借財は民法の上で帳消しとされることはなく、翌年には廃娼運動も鎮静化を迎えます。明治34年に上加納村が岐阜市に合併。上加納村に金津郭ができて以来、岐阜市は南へ南へと発展し、この頃には八間道の両側にも家並みが連なっていました。金津は新しい岐阜の中心として柳ヶ瀬の繁栄と両輪をなし、昼夜を通じて一般市民もここを通ることに不思議を感じないほどの存在になりつつありました。明治44年2月岐阜に電車が駅から今小町まで開通。これを機に八間道の柳の並木の下に並んだ露店の灯は柳ヶ瀬へと移り、金津郭のさらなる発展へとつながっていきます。(地図の下へ続く)
↓明治維新当時、矢島町より西は多くの寺があったものの人家はほとんどありませんでした。明治6年(1873年)に県庁が笠松から移転。その当時は伊奈波末広町が繁華街の中心でしたが、時代とともに柳ケ瀬方面へ西進、南進していきます。下の地図は明治24年(1891年)から平成24年(2012年)にかけての岐阜市繁華街中心部の地図です。地名や建物名はかならずしも当時のものを反映していませんので参考までにm(__)m 間違い等ありましたらその都度修正していく予定です。
明治24年(1891年)の地図(等倍 1,600px × 2,000px) | 大正9年(1920年)の地図(等倍 1,600px × 2,000px)
昭和22年(1947年)の地図(等倍 1,600px × 2,000px) | 昭和45年(1970年)の地図(等倍 1,600px × 2,000px)
平成6年(1994年)の地図(等倍 1,600px × 2,000px) | 平成24年(2012年)の地図(等倍 1,600px × 2,000px)
明治41年(1908年)8月21日には、金津遊郭20周年祝賀煙火大会が開催され、3日連続で花火が打ち上げられます。明治期の煙火は昼の花火が多く、煙による菊、あるいは「フクラモノ」という紙で作った風船を落下させ、大人も子供も長い竿をもって追いかけたりしたそうです。明治42年(1909年)駆黴院を新築。のち金津病院と改名され県立病院と同等の扱いとなります。この頃の金津郭は十八樓、豊本、山縣屋が昔からの暖簾でしたが、大正10年(1921年)頃から浅野屋が売り出しはじめます。浅野屋の創業は明治末ですが、浅野屋の主人浅野増市が菊人形で稼いだ資金をもとに、二代目浅野善吉が設備を一新する改築を行い、全国から集めた美妓30余名を第一級の芸・娼妓に仕立て上げ、東京と大阪を結ぶ東海道本線車中の口コミなども使って大々的に宣伝を行いました。営業面でも一見のお客はとらず、旅の豪遊客や紳士、旦那衆などを相手とする営業方針が当たったと言われています。
【浅野屋】 浅野屋について、昭和11年、岐阜で躍進博覧会が開かれた時の「花柳界案内」に次のようにしるされています。
「東京・大阪の豪商紳士をはじめ、あらゆる名士が鵜飼見物に事かづけ岐阜へシケ込むところに金津の浅野屋がある。浅野屋は東海否日本一の遊女屋であるとのウワサは、一度、岐阜へ足を入れたものは誰でも知っている、浅野屋がなぜこんなに有名になったのか、それはここにかぎって遊女屋にきたような気分を一掃してしまうことである。部屋の美麗なことはいうまでもなく、男女風呂などあって、各種の設備が整い、娼妓の素養は決して全国にその比を見ないであろう。鳴物、舞踊はいうまでもなく、浪曲、義太夫、長唄、常盤津をはじめ、生花、茶の湯、囲碁にいたるまで、常に教育して客の相手をするのである。さらに特徴は約30人の妓が、いずれおとらぬ美人ぞろいである。したがってここには店先にホールや写真の設備はないが、登楼して、後悔するようなことは決してない。」
大正2年、岐阜駅が長住町(現十六銀行付近)から橋本町(現位置)へ移されます。この移転によって電車道は南に新駅まで伸び、従来の「八間道」は「電車通り」と名をかえ、この電車通りは本町から長良橋南詰まで岐阜市を縦貫することとなります。大正3年には電燈値下げ問題による全市消灯中の金津廓で雪洞(ほんぼり)が使用され、かえって風情があるということで評判でした。
大正7、8年頃、弥八の三昧が取り払われて、美殿町で火災に遭った美殿座が映画館となって美殿館が若宮町にでき、この界隈一帯が芸者屋、待合、料理屋ばかりになりました。すなわち、金津を起点として東へ広がる、弥八町、住吉町、高岩町、西園町、美浪町、一番町、二番町界隈が柳巷狭斜の地となり、伊奈波末広町からはすでにかつての賑わいが失われていました。
【張店から写真制へ】 大正5年頃、東京吉原で張店が禁じられてから、次第に金津でも張店をしない店ができはじめ、大正13、4年頃県会で正式に張店が禁じられ写真制に移行しました。(※資料によっては大正9年に金津での張店が廃止されたと書かれているものもあります)このような措置がとられた理由としては、待合の増加によって町中のいたるところで客引きが行われ、監督官庁の目に余ることになった、また妓楼も同様に店先でお客の奪い合いが行われていた、娼妓にとって張店は人権無視にあたる、などが挙げられます。
写真制への移行後、妓楼の玄関口の壁に半切大の娼妓の写真が並べられます。並び順については一番右に「お職」(※前月の売り上げナンバーワンの娼妓。遊郭時代も娼妓には序列が設けられ本部屋の位置などもその序列にのっとって決められていた)、以下売り上げ順となっていました。この頃の写真は「擦筆画(さっぴつが)」といい写真をもとに作られた肖像画だったため実用には適していませんでした。その後、顔を見るだけでわいわい楽しんでいた素見のお客が来なくり、通りも段々寂れてきたため、当時豊橋の東田遊郭の形を倣って、溜場に娼妓を集め客に見せたり、写真の前で娼妓と客を直接交渉させるようにしました。最初畳敷でしたが、次第にカフェーのような構造となり、娼妓たちも腰かけるようになってきたそうです。
昭和2年(1927年)1月28日、組合事務所、同炊事場が新築されます。不景気のため妓楼で出される娼妓の食事が悪くなり、「食事くらい普通に食べたい」という要望が聞き入れられ共同炊事を手掛けることになったそうです。
昭和3年11月には、金津創設30周年記念事業として花魁道中が開催されます。櫛、笄簪(こうがい)で頭を飾り、ウチカケをまとい、花魁の前を先導する禿(かむろ)二人が大きな箱提灯を下げ、後ろから下郎が大日傘を差しかけます。花魁はこれらを従え、黒塗り、三本歯の高下駄をはき、いわゆる「外八文字」を踏みしめ、廊内をゆっくり道中します。美江寺郭の時代には毎年春年中行事として催されていましたが、今回は金津始まって以来の豪華版でした。この時、吉原仲之町を形どって桜が植えられ、翌年に人形も飾られます。
【「回し」と「仕切り」について】 「回し」とは、妓が客をとる時、一時に二人以上の客をとることを言い、「仕切り」では、一時に妓はただ一人の客をとり、その客のいる間は他の客をとらないことを言います。「回し」は主に関東の風習で、「仕切り」は関西の風習と言われています。金津では明治25年以後、客引きに牛太郎ではなく女性の仲居があたるようになりましたが、それも関西の風習への転換と言われます。「仕切り」制度では「すでに売れている妓」と遊ぶことはできないため、常に現在空いている妓と遊ぶことになります。客と妓との交渉は仲居の仲介によって成り立ち、その第一夜を「初会」、2度目を「裏を返す」、3度目以降を「なじみ」と呼びます。この呼び方については吉原など関東の他の地域にも見られるものです。
昭和7年(1932年)3月には、金津でカフェー化が許可されます。昭和11年(1936年)10月には第2回花魁道中が開催されます。このころが金津の最盛期と言われ、廊内には妓楼が49軒、揚屋が「紅葉屋」、「一元」、「得月」、「新福岡」の4軒。これらに付随する料理屋が「井桁屋」と「増美」、高級菓子店「後藤」。人力帳場が6軒。射的屋(タバコ落とし)2軒。玉突き「増田」と半弓遊技場、おでん屋2軒、居酒屋2軒、うどん屋「美濃清」、「尾張屋」、「吉安」、「十銭食堂」、「来々軒」、「改進亭」。喫茶店1軒、花屋1軒、郵便局1軒、髪結「田中」、かざり屋「稲川小間物店」、八百屋1軒、写真店、洗い張り屋「江戸屋」、床屋「山吉」、口入れ屋、質屋、組合事務所、金津病院、坂井田民吉(自宅)、稲荷神社があり、宵のうちの賑わいは柳ヶ瀬とほとんど変らないくらいのものでした。
昭和17年(1942年)3月23日には浅野屋が突然の廃業。そして、太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)には金津郭の妓楼のほとんどが長森の手力へと移され、その跡地は川崎航空機の寮となり、浅野屋の跡地には産院ができます。それも束の間、同年7月9日の岐阜空襲で全てがことごとく灰燼と化してしまいます。(地図の下へ続く)
↓昭和22年の岐阜市の地図から岐阜県岐阜市手力町周辺をトリミングしています。ちょうど現在の芋島1交差点から北西方向へ妓楼が立ち並び、雰囲気としては学校の寄宿舎のような感じだったそうです。
終戦とともに公娼制度が廃止され、従来の娼妓という肩書はなくなり、彼女たちは全て「女中さん」となります。そして、太平洋戦争末期から長森東中島に疎開していた金津遊郭は、昭和25年(1950年)10月から11月にかけて加納水野町へと移転し、金津園と呼ばれるようになります。金津園はここで売春防止法が施行される昭和33年(1958年)まで営業を続けることとなります。加納水野町への移転は総工費1億円あまりかかったそうで、この時の店舗数は72軒、女中さんの数は300人余りでした。お客が払う料金は40分300円~1時間500円、泊りで700円~1,000円が相場で、他にも廓内には手軽な料理屋や飲食店が立ち並び大いに賑わっていたそうです。(このコラムですがいろいろ調べながら書いていますので、間違いや新しくわかった事がありましたらその都度修正していく予定ですm(__)m)
↓昭和25年の岐阜市の地図から加納水野町周辺をトリミングしたものに、加納水野町へ遊郭が移転した当時の建物名、店舗名を書き足してみました。昭和25年当時は地図上の水色のラインで表示されている部分に溝があって川が流れていました。建物名に関しては『觀光岐阜』P33の「金津園細見圖(あんないず)」を参考にしています。
【参考HP】
「岐阜芸妓組合」
「花魁道中絵はがき(岐阜金津)」(岐阜県図書館)
「柳ヶ瀬ができたころ」(<ふるさと岐阜の歴史をさぐる>)
【参考書籍】
清信重『ふるさとの岐阜の物語 明治編』(福富昜、1994)
清信重『ふるさとの岐阜の物語 大正編』(自費出版、1995)
平塚正雄編『觀光岐阜 岐阜縣の観光と史蹟案内 第三輯』(觀光岐阜社、1950)
森義一『岐阜市發展史』(岐阜毎夕新聞社出版部、1933)
岐阜花街案内社編『岐阜花街案内』(岐阜花街案内社、1936)
道下淳『ふるさと秘話』
『岐阜市史 資料編』
第1回 あのお店は今?
今回は岐阜、愛知、静岡、三重のソープランドについて、「昔行ったことがあるけど最近行ったらお店がなかった・゚・(ノД`;)・゚・」という方のために、分かる範囲で店名の移り変わりを調べてみました。今回参考にさせて頂いたサイトや書籍は「ソープランド 情報ガイド ロビンのお部屋」、「金津園ワールド」、ネット掲示板の「5ちゃんねる」や「爆サイ.com」の過去ログ、昔の住宅地図、『月刊ミューザー7・8・11・12・13・15・21・25・27・33・38・40・42・44・48・63・76・85・87・89・94・95号』(おおとり出版)、『おとこの読本NO.1 いま、トルコ』(永田社)、『おとこの読本NO.4 GO!トルコ』(永田社)、『おとこの読本NO.6 トルコ100店』(永田社)、『ザ・トルコ』(いその・えいたろう著/世文社)、『にっぽん全国盛り場ガイド』(壱番館書房)、『好奇心ブック40号 全国ソープランドの本』(双葉社)、『好奇心ブック70号 全国ソープランドの本 2001』(双葉社)、『個室浴場ガイドBOOK’85前期首都圏版』(若生JOYブックス)、『MAN-ZOKU手帳 2003』などです。また金津園の店名の変遷については良性記というサイトの「金津園全店リンク」にかなり詳しく記載されています。こちらもぜひご参照ください。「こんなお店もあった」、「ここが間違ってる」という時は、お手数ですがメールにてお知らせ下さい。ちなみに店名の横のカッコ内には、その店名を確認した住宅地図の発行年度と雑誌の場合は雑誌名を記載しています。
備忘録として他業種についても気になった範囲で載せておきます。今回こちらも参考にさせていただきました。→「cobanobuのブログ」「ストリップ アーカイブ@劇ジェロNOW」「SMペディア」「劇場今昔物語」「イコマ師匠 『俺の旅』シリーズ編集長 X」
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- 現在の店名(リンクはストリートビュー or 地図)
- 店名の移り変わり( 新 ← 旧 )
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- 《 三重・志摩市・浜島ストリップ 》※1974年頃…ちづ、蘭、歌麿、炎、グリーンパーク、都、浮世絵、静杏の8軒
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金津園の今と昔のソープランドMAPを比較しやすいように重ね合わせてみました。1984年以前、ソープランドはまだトルコ風呂(トルコ)と呼ばれていました。金津園の地図にトルコの文字が出てくるのは1960年代前半になりますが、年代をさかのぼるとトルコと料亭・カフェなどの飲食店、旅館、その他商店の判別がしづらくなってきますので、地図にトルコと書かれているお店は 印、それ以外の業態が分からないお店は 印と分けています。また1958年(昭和33年)以前はまだ遊郭として営業していましたので、その時のお店も 印にしています。今回参考にさせて頂いたのは「月刊ミューザー27・33・42号」と「にっぽん全国盛り場ガイド」、「観光岐阜」、「ふるさと秘話」、当時の市街図です。他の年代のMAPは当時の市街図と照合しながら随時追加予定です。(追記)地図に記載されている店名について、参照した地図によって年度が前後にずれている可能性がございます。年度別の店名の変遷については、良性記というサイトの「金津園全店リンク」にもかなり詳しく記載されていますので、ぜひ合わせてご覧下さい。
手力金津園の航空写真
現在金津園がある加納水野町の航空写真
金津園が岐阜駅南口に移転した当時の雰囲気や情緒がよく分かる文章として前出の『観光岐阜』(観光岐阜・1950,1951)と『ふるさと秘話』(道下淳/著・ぎふきた法人会・1988-1991)から抜粋してみました。
「いよいよ昭和二十五年十月より十一月にかけて手力の金津園は悉く引き移った。岐阜駅の正面を出ると線路に沿って広いコンクリートの道路を西へ二丁ほど行く、橋がある、それを渡って左へ折れ、溝に沿って踏切を越すとすぐ金津園。駅の南口からは右に折れ、線路に沿って西へ二丁程真っ直ぐに行けば、目を瞑っていても金津園の郭内へ入っていく。
だから汽車の時間の都合で一寸素見しにでも立ち寄ることができる。ここで泊って汽車の旅に出るにはまことにお誂え向きの場所。こんな便利な場所に一郭をなしている処はおそらくどんな都市にも見られないであろう。
店の数は七十二軒、工費一億余円で全部新築された偉容で、ネオンの光、目に触るるもの皆感じの良い新設備、現在女中の数が三百余人、いづれ近い中に五百人以上になる見込み。
大概時間切三百円から五百円、泊り七百円から千円見当で面白く遊べるから、下手に宿屋などで泊るより遥かに安上がりで情調的だ。旅から来て退屈しないといわれている目下旅館と金津園のクーポン券も計画されており、実現の暁は相当利用されることであろう。
金津園の前にはハルピン街(※1)が軒を並べて櫛比しているから、寂しいという気持ちは抱かない。ふらふらとここらあたりを素見してから流れ込むのも良い。
岐阜は昔から遊んで感じがよいと云われるのは、客を祭り上げて金を絞ると云う事をしない事と、どんな旅の客でも見懸けをやらぬ事と、而も昔からマワシ部屋をしないのが、岐阜へ来た一般の客から好感をもたれている。
戦前浅野屋の評判は今さら喋々するまでもないが、当時女が足らぬ時には皆他の店から繰り出したのであるから、要は当時の浅野屋は金津の看板であったと云ってよい。ところが今ではヨリ民主的な、ヨリ経済的な、ヨリ豪華的な遊興ができる。
観光岐阜市として今や長足なる発展をなしつつある今日、土地の客は申すまでもないが、金津園では旅のお客に岐阜の情調を味わってもらう様今後は万全を尽くすと云っている。金津園がここへ移ってきたのも一に其処にある。とにかく新装の出来上がった東海の花は上下向きのとき見落とすことのできない名物の第一指である。
「籠の鳥」という言葉の如く、昔の娼妓達は奴隷であり、何等の自由もなく、また一家の犠牲となって身を沈めている者が殆どであったので、今や遊郭史上の一劃期を成したのである。
人身売買を禁ぜられた彼女たちは、悉くが自らの意志によって働いている人間たちばかりであるから、人間を商品として扱った過去の時代と今日とは実に雲泥の差がある。
鵜飼を見る客がこの夏には相当金津園を利用する事だろうとみられている。
元来手力の金津園は学校の寄宿舎のような感じであったが、それに比してもあまりにも今度は豪壮である事は、新しい気分の家を見るだけでも価値があると思われる。」
※1「ハルピン街」…戦争で焼け野原となった国鉄岐阜駅前に、北満州(今の中国北東部)からの引き揚げ者たちが中心となって、バラック小屋をつくり、古着や軍服などの衣服を集めて売りました。これはハルピン街と呼ばれ、岐阜問屋街の始まりとなりました。昭和23年頃からは古着ばかりでなく、布を一宮や羽島から仕入れ新しい服を作って売るという岐阜の既製服産業が始まりました。(岐阜婦人子供服工業組合HPより)
「昭和二十年初め全部南長森の手力に引移させられた金津園は、さらに同二十五年十月に現在の岐阜市加納へ新しい金津園として一億円の工費を以て新装成り、岐阜駅下車して徒歩三分、駅の表口からでも南口からでもどちらからでも汽車の線路の下る方へ沿って、表口からの人はコンクリートの大道を西へ二丁、橋の袂から折れて溝に沿い、踏切を渡れば直ぐに金津園。南口の人はそのまままっすぐに西へ一丁行けば目を瞑っていても園内へ入ってしまう。
全部が新築新設備であるから、ネオンの光、紅粉(べにとおしろい)の香、最もよく調和して、そぞろに遮莫の感にうたるるも宜(むべ)なる哉である。
女中紅裙(こうくん)の数まさに五百たらんとし、長良川の清流と金華山の青葉にはぐくまれて、昔から岐阜美人と称され最も美しい妓が多い。最明寺入道北條時頼が諸国を行脚して「美濃国の風俗其意地きれいにしてたとへば水精の如し云々」と『人國記』に評した如く、第一感じの好い女が多いという事である。
駅へ非常に便利であるから、途中下車で一寸旅情を慰むることもできるし、また今日一番多く利用されているのは宿屋の代用である。しかもその方が却って経済的で、情調的であることは今さら贅言を要しないであろう。
郭内には手軽な料理屋や頃合いの飲食店が櫛比しているし、登楼して一献を傾けても、ビール一本口取付百八十円、一級酒一本百円、二級酒一本八十円と相場が定まっている。そして遊興は、一仕切正味四十分見当約三百円、正一時間約五百円というのが通り相場で、泊り夜の十二時から朝の八時まで七百円から千円見当、それで十二時を過ぎて一時二時となれば、店によって交渉の余地のあるところもないでもない。
すべてこれにはチップが含まれているから別に心配しなくともよいが、チップを出しても処罰されるわけでもないから安心してよい。園内に専属の完備した病院があって、衛生には万全を尽くしているから、健康なる紅裙ばかりであるといってよい。
金津の郭が岐阜に店開きをしたと前後して岐阜に汽車の駅ができた。その時は今の元町一丁目二丁目を金津と呼んでいたので、誰しもここを教えたから、旅客は町並みの商家を裏商売かと早合点し、色々の粋客酔客が紛れ込み、騒がせて時には巡査を呼んできた事もある。こんなことで金津町を元町と改めることとなった。
今度こそ金津園は本当に駅近くで、そんなナンセンスなく遊ぶ事ができる。
どこの都市でもほとんど駅から離れ旅情を慰むるのには、あまりにも気抜けさせられるが、それを殆ど一掃するは岐阜の金津園の外にはない。今や店は七十六軒、春の淡雪に又一入の情景を深からしむる。
窓辺に散りくる白雪がネオンの光に照り映える風情はここならでは味われまい。
ああ春宵一刻値千金。」